私の身体は誰のもの

ダーリンが置いていったもう一冊

 『できればムカつかずに生きたい』 ― 私の身体は誰のもの ―

翻訳家であり鍼灸師でもある 上野圭一さん のお宅に伺った時のこと。
上野さんは 『ヒーリング・ボディ ― からだを超えるからだ』 (サンマーク出版)の著者でもあり、またアンドルー・ワイル著 『癒す心・治る力』 (角川書店)の訳者でとしても知られる。

その上野さんがこう言うのだ。「女子高生の売春と、臓器移植は問題の本質がいっしょなんです。」
私は驚いて、上野さんの聞き返した。「ええ~?売春と臓器移植がですか?それはどういうことですか?」

「どちらも、発想はいっしょです。自分の身体なら自分で何をしてもいいだろう、という。自分の身体について意のままにしてもいいし、何をしてもいいのだ、それは自分の所有物だから個人が自由に裁量していいのだ、という考え。その考えの延長に少女売春があり、臓器移植もあるんです。」

上野さんのいうことはわかるような気がした。が、なんとなくすっきりしない私は、実は心の中にこんな疑問をしまい込んでいた。

「自分の身体って自分もモノじゃなかったの?自分の好きなようにしてはいけないんですか?」

でも、こんなことを単刀直入に上野さんに聞いたらなんだか軽蔑されちゃうような気がして、凡人のわたしは「そうですよね~、まるほど」と相槌を打って帰ってきてしまったのである。


― 中略 ―

わからん、さっぱわからんぞ。

というわけで、私は「からだの所有」について研究している頭の良い人を探した。
どだい私はアホなので自分で考えても限界がある。するとガブリエル・マルセルという人が、ちゃんとそれについて考えていた。

マルセルさんは、著者 『存在と所有』 のなかでこんな風に語っている。

身体性は存在(あること)と所有(もつこと)の境界ゾーンである。あらゆる所有は、何らかのかたちで、私の身体と関連づけて定義される。この場合に私の身体とは絶対的な所有であること、そのことによって、いかなる意味でも所有はありえなくなるものである。所有とは何者かが自分の意のままになるということ、何ものかに力を及ぼしうることである。このように何ものかを意のままにできるということ、あるいはここで行使される力には、明らかに、つねに有機体が干渉している。ここでいう有機体とはまさにそのような干渉によって「私はそれを意のままにでき」と言えなくさせるようなものである。そして私が物事をいのままするということを可能にしてくれるその当のものが、現実には私の意のままにはならないという点、まさにこの点におそらく不随意性(意のままにならない)ということが形而上学的な神秘が見てとれるのだろう。

難しい~。しかしながら、マルセルさんをもってしても、絶対的な所有である自分の身体が意のままにならないをいうのは「形而上学的な神秘」だと言っている。
そうか神秘なのか。まいったな。


― 中略 ―


身体は世界についていつも語っているんだ。言葉じゃない言葉で。身体語で。
身体は心についていつも語っている。本当に心が望むものは何かを、身体語で。
肉体を持つことで、私は私以外のすべての生き物とつながる可能性を秘めている。
それを頭を知らない。


この中略の部分にこんなフレーズがある。

きっと「自分の身体は自分もモノである」のではなくて「自分の身体は自分である」なのだ。

そっか 「ケイしゃんの身体はケイしゃんである」 のだね(^^?
[PR]

by keisyan | 2005-02-01 22:38 | 読書