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「悲」の力

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【情の力】 五木寛之 著 より

― 「悲」の力の大きさを見直そう ―

いま、人間同士のこころの絆が薄れつつあるように見えます。
そのなかで、私たちはなんとか、新しい絆を作っていかなければならないのではないか。
たとえば 「慈悲」 という人の情があります。
この言葉自体、最近はあまり耳にしなくなりました。

私は「慈」父親の愛情、 「悲」母親の愛情ではないかと思う。
「慈悲」は、このむしろ相反する意味の持つふたつの語を一緒にしたものなのです。

「慈」というのは血縁に代わる新しい絆でしょう。
みんな「人間」という家族なんだ、という考え方から生まれてくる愛情です。
ヒューマンで理性的な励ましともいえます。
 
一方、「悲」は思わず知らず、体の底からあふれでてくるうめき声に似た感情だと思います。
つまり、前近代的で本能的で無条件の愛情です。
人間の運命を感じ取り、その重さに泣く、つまり共感するということです。

阪神・淡路大震災のとき、テレビのインタビューが被災者の人たちにマイクを向ける光景がテレビに映っていました。
そのインタビュアーは、子供を亡くしたばかりの母親に向かって「いまのお気持ちは?」と質問して、最後に「がんばってください!」といって立ち去ったのです。
それを見たある作家が憤慨して、「『がんばれば死んだ子が戻ってきますか?』といわれたら、どう返事をするんだろう」といっていました。

「慈」は、再生しようという気持ちや能力がまだ残っている人にとっては大切です。「がんばれ」と励まされることで、もう一度立ち上がることができるからです。けれども、もう自分は立ち上がれないし、生きなくてもいい、という絶望のどん底にある人に「慈」はむしろ逆効果になることもある。

家も財産も失い、家族の命まで奪われて茫然としているような母親に対して、「大丈夫、すぐに次のお子さんが生まれますよ」なんていったい誰がいえるでしょうか。

そんなときにできるのは、なにもいわずに涙を流し、そばで深いため息をつくことくらいです。
相手の悲しみや痛みを軽くしてあげられないという己の無力さに、思わずこころの底からため息がわきでてくる。

これが「悲」というものなのです。誰かが自分と同じように悲しんでくれていると感じることで、こころの痛みは軽くなります。人間はどこかでそういう無条件の愛情を求めている。私たちは、無力に見える「悲」の力の大きさを、もう一度みなおすべきときなのかもしれません。

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無力だけど、ため息がでるけど、寄り添うことは「ほのかな力」になるのですね。

by keisyan | 2007-01-18 20:18 | 読書