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私の痛み 

ランディさんの本(神様はいますか?)より

身体は自分のもの。と、いったとき、では「自分」とは誰のことなのだろうか。

たとえば、「このペンは私のものです。This is my pen.」という場合、penと私は明らかに区分されている。
penは私の所有物である。わたしが持っているものだ。

では、「私の身体」といった場合、私と身体の間には、区分があるのだろうか。

私とは、存在の総称の名称じゃないのか。それなのに、私が身体を所有するのは変ではないか。私を身体を分離しちゃったら私じゃなくなる。

それなのに「我思う故に我あり」と考えている私とはなにものなのだ。

私という意識は、世界の迷子である。

人間が言葉をもたなかったとき、世界は自分と区別されず、曖昧模糊としていたとおもう。
あらゆる抽象的な概念が、自分のなかにどろどろ溶け込んできて、過去も未来もなく、ただ、目の前の現実あるだけ。
たぶん、人間はかつてそんな世界に生きていたのだと思う。
でも、言葉を得たことによって、人は世界にネーミングすることが出来るようになった。
そして自分という存在にも名前をつけた。名前はありとあらゆるものにつけられ、世界はそれによって明確化し、区分された。世界はとても構造的になった。把握しやすくなった。言葉のおかげだ。

言葉が出来たことで、人は、宇宙やそれから形而上学的な概念を思考することが出来るようになった。たとえばもし、言葉がなければ「マイナス」という事実を伝えることはとても困難だったろう。負の世界、見えない世界を把握できたのは、言葉が誕生したからだ。

でも、言語化されることを拒否し続けるものがある。
それが 「身体」 であり 「魂」 であり 「私」 である。
体も、魂も、私も、実は明確な定義はできない。いまだにできない。
身体とは何か?魂とは何か?私とは何か?もしかしたら、それらはすべて、ひとつのものなのかもしれない。

便宜的に使い分けているけれど、実はひとつのものなのではないだろうか。
きっとひとつだな、とわたしは思う。

形は変えているけれども、根は同じもの。

たち現れる命のすがた。

私はいまでもときどき、彼女の言葉を思い出す。
生きているだけで、革命なんだ。 



以前日記に書いた 「いのちが、私している」 を思い出した。

「痛み」 についても言葉で表現できるものではないように思う。
そして、身体 と 私 が区別できないように、 私 と 痛み は区別できないのだと思う。
私のとって 私の痛み は 私そのものなのだ。

ところで ・・・

「私は腰が痛い」  これは一般的な英語の表現ではどうなるんだろう?
「I have a pain in the waist.」 かな?


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by keisyan | 2005-07-14 17:51 | 読書