絆力
【わたしが治る12の力】 上野圭一 著
― スピリチュアルと<絆力> ―
「つながっているという実感」は、考えてみれば、とてもふしぎなものです。
その「実感」は時間/空間に制約されることのない「いま、ここ」の感覚です。
目の前にいる愛犬との<つながり>、地球の反対側にいる親友との<つながり>、何十年も前に亡くなった姉との<つながり>。宇宙に偏在する「神」との<つながり>のそれぞれの実感には、ほとんど差がありません。
つながっている相手とのあいだに感じる「一体感」には、皮膚の内側だけに同一化している閉じた<わたし>意識の状態では感じることのできなかった、独特の「ひらかれたリアリティ」が伴っています。
そのリアリティは、そこから<わたし>が生まれ、またそこに還っていく、<ことば以前>=主客未分の世界につながっていく予感をはらむ、関係性で織りなされたリアリティです。
「スピリチャアリティ」(霊性)といわれるものは、じつは、そのような関係性のうえにあられてくるものです。「自己なるもの」と「神なるもの」の実体は、常に両者の<つながり>=一体感のなかにあり、主体としての<わたし>と受容としての「神」は実体ではなく、フィクションでしかないからです。
<信念力>の章で、<からだ>と<わたし>との関係を<自己である庭>と<管理人>という比喩によって捕らえる考えかたをご紹介しました。
この<からだ>は<わたし>の所有物ではなく、大いなる力(自然・宇宙・神仏)から無償で貸し与えられた<庭>のようなものであり、返却するその日まで、荒れ果てることのないように、たゆみなく<庭>の手入れを続けるのが<管理人>としての<わたし>のつとめであるのいう物語です。
アメリカのホリスティック医療協会を創設した医師たちが用いたこの比喩は、きわめてスピリチュアルな考え方にもとづくものです。
無償で貸し与えられた<庭>としての<からだ>を預かっている<管理人>が<わたし>であれば、<わたし>はつねに貸し主の存在に思いをはせ、貸し主との<つながり>を実感しながら、貸し主に返却するその日まで、<庭>の手入れを続けるでしょう。
そのような態度が人に<治る力>をもたらし、ホリスティックな健康をもたらすのだと、同協会を設立した医師たちは主張していたのです。
AAのメンバーは一日に何度も「従容の祈り」を唱えるといいます。
神さま、どうかお与えください
変えられないことを従容とにて受容する落ち着きを
変えられることを帰る勇気を
その二つのちがいを見分ける賢さを
ヨーロッパで1500年も前から人々に唱えられてきたこの祈りのことばを、AAのメンバーは部屋の壁に貼り、ミーティングの最後に全員で唱え、ひとりでいるときも、アルコールへの欲望を意識するたびに唱えるのだそうです。
<わたし>に「変えられないこと」はいくらでもあります。それを変えようとして苦悶するのではなく、「変えられないこと」とわかったそれを「従容として受容する落ち着き」が必要とされます。そのときに効力を発揮するのが<絆力>であり、とりわけ、「大いなる力」との<つながり>の実感なのです。
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わたしが今、とても強く感じている<つながり>はやはり、掲示板でのつながりです。
住む場所も性別も年齢も職業も趣味もまったく違う人たち・・・
【痛み】という物語だけのつながりですが、だからこそ、とても強くて不思議(スピリチュアル)なつながりを感じます。
共感しあう、知識を得る、癒しを得る、安心できる、、それだけではなく、そのつながりを大切にしたいという思いも強いのです。
by keisyan | 2006-11-08 21:45 | 読書